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人生はくそ

心が貧しい

立岩真也『私的所有論 第2版』序

 初めに八つの問いが与えられる。後々引っ張りなおすかもしれないし、わざわざ自分の言葉で言い直す必要もないだろうと思ったので、ひとまずすべて引用する。

(1)一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。しかしなぜか。また、その人のものであれば、同意のもとでの譲渡(交換)は認められるはずだが、これもまた通常認められない。なぜか。
(2)例えば代理出産の契約について。それを全面的によしと思えない。少なくとも、契約に応じた生みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。つまり、ここでは自己決定をそのまま認めていない。
(3)ヒトはいつ生命を奪われてはならない人になるのかという問いがある。右で自己決定の論理で推し進めていくことをためらった私は、しかし、ここで女性の「自己決定」が認められるべきたど思う。
(4)私達は明らかに人を特権的な存在としている。しかしなぜか。人が人でないものが持たないものを持っているからだろうか。このように言うしかないようにも思われるが、私達は本当にそう考えているのか。また、それは(3)に記したようなこととどう関係するか、しないか。
(5)売れるもの=能力が少ないと受け取りが減る。あまりに当然のことだが、しかし、その者に何か非があるわけではない。こういうものを普通「差別」と言うのではないか。つまりそれはなくさなければならないもの、少なくともなくした方がよいものではないか。しかし、何を、どうやってなくすのか。それは可能か。
(6)他方で、私は能力主義を肯定している。第一に、私にとって価値のない商品を買わない。第二に、能力以外のもので評価が左右されてはならない場があると思う。しかし、能力主義は属性原理よりましなものなのか、そうだとすれば、なぜましなのか。また、第一のものと第二のものは同じか。
(7)生まれる前に障害のあるなし(の可能性)が診断できる出生前診断という技術があり、それは、現実には、障害がある(可能性がある)場合に人工妊娠中絶を行う選択的中絶とこみ(原文では傍点)になっている。それを悪いと断じられないにしても、抵抗がある。
(8)「優生学」というものがある。遺伝(子)の水準に働きかけて人をよくする術だという。ならばそれはよいものではないか。少なくとも批判することのほうが難しいように思われる。

 これらの散発的な問いを、次のように問い直す。「何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか」。そのうえで、私的所有というテーマについて語られてきたことを検討する。さらに今度は、問いの間にある矛盾、例えば(5)と(6)とに見られる、能力主義への相反した感情、あるいは自分の身体を自由に利用すること、自己決定への一貫しない姿勢、これらを同時に成り立たせる何かを探し出す。その何かというものは、我々の生の中に確かに存在するものであるが、これまで十分な言葉が与えられてこなかった。我々のなした「観念や実践の堆積」の裏にある隠れた前提を読み解くことで、その何か――ある感覚が浮かび上がってくる。

 筆者は加えて、単に私的所有や上にあげた「何か」を論じるのみならず、上に掲げた問いに対する「解」の提示も試みる。これまでになされてきたことというのは、問題の存在を指摘して終わっているか、生命の平等といった原理原則を唱えるだけで、現に我々が行ってしまっている線引きについて何も答えないまま終わっているか、論理の穴を残したまま「所有」と「決定」について何か言ったつもりになって終わっているか、このいずれかだという。それゆえこの本が書かれた、という由である。