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人生はくそ

心が貧しい

希望について

 すべては偶然である。ただ理由もなくあの人は強く生まれ、この人は弱く生まれる。ただ理由もなくあの人は賢く生まれ、この人は愚かに生まれる。ただ理由もなくあの人は喜び、この人は苦しむ。ただ理由もなくあの人は生き、この人は死ぬ。人間は偶然を満たすための器である。我々が互いに小競り合いをしたところで、それはいくつかの偶然の戯れに過ぎない。ある偶然が他方にたまたま優越している結果、偶然が偶然に勝ち、偶然が偶然に負ける、ただそれだけのことなのである。そしてそれ以外ありえない。その限りで、偶然は必然に合一する。

 私のもとにあるものは私ではないし、私のものでもない。それは私に対して偶然与えられたものであるし、私にはそれを私のままにすることが出来ないからである。ゆえに私は私のもとにあるものに対する責任を負わないし、負えない。しかし、人間は偶然を罰することが出来ないから、仕方なく人を罰する。そしてここに主体が現れた。

 主体概念によって、あたかも私と私のもとにあるものが十全に制御可能であるかのように考えられるようになったが、そうではない。それらを制御するものは偶然によって作られたものだからである。ただ、このような世の中に生まれてそんなことばかり言っているわけにもいかないので、仕方なく諸々のことを私のものとして引き受ける。

 偶然に抗うことは空しい。抗った結果得たものもまた偶然の産物だからである。そもそも、抗っているつもりになっているその行為自体偶然に組み込まれている。だから、その行為の、さらにいえば世界の空しさにふさわしいだけの空しさを世界に対して抱く人がいる。そういう人たちが、頭を剃ったり、山を開いたりしてきた。

 これと違うのが、偶然だらけの世界に絶望する人、悲観主義者たちである。彼らは、悪を必然、善を偶然と考えているのであるが、ひとつに、善も悪も共に原因をひとつにすると考えないという点で、もうひとつ、必然と偶然が一致すると考えないという点で、空しさを知る人とは異なる。善を必然、悪を偶然と考える楽観主義者もこの点で同様であるし、さらに言えば、悲観主義者も楽観主義者もそう大差ない。ただし、悲観主義者は世界を否定したり仕方なく受容したりするが、楽観主義者は世界を否定することはしない。そのような非対称性がある。

 世界は受容しなければならない。世界を否定したところで、世界は否応なしに私のもとへ流れ込んでくる。その点、楽観主義は総体としての悲観主義に比べて一枚上手だと思う。しかし、悲観主義だって世界を受容することは出来なくはないし、この道から世界というものを知っていくのもよいと思う。これは悲観主義に残された唯一の希望であるからである。

さまざまな補足

 例の呟きから一夜明けて、諸々の反響があったりなかったりしたのだが、とりあえず、混乱した脳をぎこちなく運転させながら昨日言えなかったこと/加えて言いたいことを補足する。文章がめちゃくちゃであるがそこはご愛嬌。

・やはり欲望は正しい形で語られないと心がねじ曲がってしまう。気がする。だから、今回カミングアウトしたお陰で外向けの願望を異性愛者っぽくわざわざ取り繕うこともなくなるから、いたずらに鬱屈した言い方をしないで済むようになり、少しは心持ちも良くなるはずである。最近同期が恋愛ラッシュで動揺してるのもあって燃やすだの○すだの物騒な言葉ばかり発してしまっていてこれは良くないなと我ながら思っていたのだが、今回を契機としてもう少し穏やかな生を獲得できればなあと祈っている。とはいえ非リア村を作る話は本当です。入村待ってます。

・今後、僕が産み出す、性を纏った任意の表現物についてフィルターをかけて見られるのではないかという不安がある。いわゆる性的表現に留まらず、性別を持った(あるいは持たない)生物が描かれる場合もこれに該当する。具体的にどういう不安なのかというと、そういう表現物を「同性愛者松延が見た/描いた世界」として見られるのではないかという不安である。確かに、僕という装置を通過し表象された女性は必然的に性愛的な部分を捨象され、僕という人間にまなざされ描かれた男性は不可避的に性愛の対象となりうる可能性を付与される。さらに、性的な要素を漂白されたものを描く場合、今度は僕が性的に曖昧な位置にあることが意識され、表示されうる。それらは僕が同性愛者であり表現者である限り避けようのない事実なのである。僕はそれらを認める。認めるしかない。しかし、僕が同性愛者であることから帰結される以上のことは一般的である。つまり、僕そのものに由来するものではなく、「Xは同性愛者である」という述語の表す意味に含まれるものなのである。それは僕から離れたものであり、僕より一般的な概念である。今適当に思い付いたのだが、表現とは形式において一般的であってもよいが、意義においては特殊でなければならないと思う。だから、先ほどの述語から導かれる意義というのを、僕の表現の意義とされたくないのである。要するに、あらゆる述語を剥ぎ取った、端的な項としての松延を表現者として見なしてほしいのである。あらゆる肩書きを取り払った、純粋な表現者として見なしてほしいのである。途中で何をいってんのか自分でも訳がわからなくなったが、要するに僕の表現に「ああここは同性愛者の目線から描かれたからこうなったんだなあ……」とかそういう評価を与えられるのはちょっとあれだなあっていうだけです。偉そうなこと言ってすみません。

・親戚には死ぬまでこの事について話したくない。この時点で僕の親戚を知る人はめちゃくちゃ大きな弱味を握ったことになるわけだが、どうかこの事についてだけは家族に口外しないで欲しい。母親こそ子の人生は他人の人生、というポリシーを持ってはいるが、父親に関してはしっとりと酒を飲む度孫を見たいという旨の発言をしてくるので※、胸が痛むのである。本気で偽装結婚を考えているくらいなので、決して褒められた両親ではないけれども、どうか僕のこんな性状でいたずらに心を掻き乱されて死んでいくことだけは止して欲しいという気持ちがある。

※僕が甥に関するツイートをしてたのを知っているひとは「えっ孫いるじゃん」って思われたかもしれないが、実は今の父親の血を継いだ子供は僕だけである。別に大したことは起きてないので詳細は省くし(再婚なんて珍しくないだろうから)、正直僕のことの方が家族にとってはよっぽど不幸だろうと思う。

昨日のツイートについて

 昨日ぽろっと言ったように、僕はゲイである。

 酔ってやけっぱちになってつい呟いてしまったのだが、以前からそろそろ公にすべきだとは思っていたので、あまり後悔はしていない。で、なぜそろそろ公にすべきと思っていたのかというと、いい加減黙っているのに疲れてしまったからである。何かを言わないということはそれ自体(少なくとも僕にとっては)労力の要ることであり、歯痒いことである。周囲が勘違いをしている(つまり、僕を異性愛者とみなしている)場合はなおさらである。加えて、全く恋愛話をしないのも怪しまれるから、ゲイであることがバレない程度に(でももしかしたらバレてたかもしれない)ぼそぼそと小出しにしてきたのだが、外部に流した情報の整合性をとるのがいよいよ面倒になってきた。というか手に負えなくなってきた。うまいこと取り繕って話せば良いものを、と思われるかもしれないが、全く存在しない色恋沙汰をでっち上げるのは相当な苦労が要るし、何より馬鹿馬鹿しいから、畢竟本当の話を少し改変して話すことになるわけだが、これも段々話が噛み合わなくなってくる。嘘が下手だと言えばそれまでだが、いずれにせよこういうことをしているといよいよ周りに勘づかれ始める。そして、向こうから先にゲイなのと聞かれるのは何となく悔しいというか嫌なので、バレてしまう前に先回って公表してしまおう、となった。

 まさか今日がこの日になるとは予想していなかったのだが、いずれやってくる日ではあったので一応覚悟は出来ている。むしろこんな苦労話めいた厚かましい話を見せられる方はさぞ迷惑に感じているだろうことに申し訳なくなっている。ここに自分の身勝手さを謝罪します。また、嫌悪感を感じた方もすみません。気味の悪さを感じた方はどうぞお気になさらず距離を置いてください。こちらも察します。疎まれることには慣れていますから。