人生はくそ

心が貧しい

「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(2)

前回のはこちら

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被告の立場から考える

 前回の投稿では、アウティングが持つ暴力性というものをこれでもかとなじったわけだが、しかし、アウティングした側ばかりを一方的に断じることに、いくらかの後味の悪さが残るのも事実である。ある人の中には、次のような疑問が生じることがある。「カミングアウトや告白は、聞き手に心理的なショックを与えるのみならず、性的少数者であるという事実を秘密にすることを強いる行為であり、その点今回自殺したAにも問題があったのであり、Zがアウティングに至ったのにもある程度の正当性があるのではないか?」

 結論から言ってしまえば、Zのアウティングに正当性はないように思われる。わざわざAの入っているラインに投下せずとも、もっと別のコミュニティ、例えばサークルなり中学や高校の同期なりに相談すれば、Zがアウティングの正当性の理由として挙げた「精神的苦痛の回避」は達成できたはずであるからである。この点、パネリストの原氏も、Zの属するコミュニティの中でも、Aの交友関係とクロスしないところで、問題を解決すべきだった、という形で言及している*1。さらに、仮にも秘密とされるべき事実を共通のコミュニティで公言すれば、それこそ今度はAに多大な精神的苦痛を与えることになるということは、Aに対する悪意があったにせよないにせよ、容易く予見できたはずである。したがって、状況を打破するにはアウティングするしかなかった、ということにはならないし、アウティングの加害性自体も一般人であれは明らかに認知できるわけだから、Zの行為は、その限りで責めに帰せられるものと考えられる。

 ただ、こう理屈を並べてみたところで、先程のような疑問を抱いた人が納得するとは思わない。まず、(あまりいい言葉ではないから使いたくないのだが)「カミングアウトや告白の暴力性」という問題が置き去りにされているのではないか、という反論があるだろう。まあ、カミングアウトや告白の暴力性なるものがZを脅かしているのだからZに非はない、という論理で考えている人に、アウティングの危険性を述べたところで話がかみ合うはずがないのだけれど、少し考えてみると、このような、Aの行為にも問題があったのだ、というたぐいの言葉の裏には、Aがこの事件の「そもそも」の原因だったのだ、という信念が横たわっているように思う。「そもそもAが告白さえして来なければ、Zは思い悩むこともアウティングによって結果的にAを死なせることも無かったし、Zや大学が裁判で訴えられることもなかったのではないか」という疑念、Zが背負っ(てしまっ)た運命に対する理不尽さによって、Aに対する人々の怒りは支えられているのではないだろうか。

 この構図は、いじめや痴漢・強姦被害者に対する非難に似ている。事件の被害者は、「いじめられる方にも問題がある」とか、「男性の興味を引くような服装をしていたのが悪い」「一人で夜道を歩いているのが悪い」といった言葉によってしばしば傷つけられているのだが、これについては、公正世界仮説(信念)*2の観点から研究がなされている*3。今回の件についても批判者は、Aが自殺にまで追い込まれたのは、Aに何か問題があったせいであるとすることで、自身の心の中にある公正な世界を保とうとしていた、と分析することもできるかもしれない。しかし、当然ながらこのような分析は、告白やカミングアウトの持つ苛烈さ、Zが置かれていた、そして今置かれている(とされる)境遇の理不尽さに答えを与えない。

告白やカミングアウトは暴力か?

 性的少数者であるという事実が、いまだ重苦しいものとして受け止められてしまっている以上、カミングアウトが、相手に少なからぬショックを与えるのは事実である。「親しい間柄であれば、衝撃の大きい事実でも受け止められるはずである」と考えることもできなくはないが、むしろ、カムアウトする側との親交が深ければ深いほど、(今回の場合)聞き手の依拠しているジェンダー的な倫理観とカミングアウトされた内容とが相反した場合に、友情と価値観の乖離とそこから生じる苦しみ*4は一層深刻なものになる。

 さらに告白となると、これに双方の性的指向の相違が加わる。ここで、告白された側には、自身の指向が期待しえない好意が予期せず差し向けられる。達成しえない精神的結合(と、暗に肉体的結合)が要求されていることが感覚され、告白された側は当惑と、場合によっては不快感を抱く。ここでいう「達成しえない」というは、単にこの人は好みじゃなかったとか、この人とは上手くいけなさそうだなといった判断以前のレベル、生理的、根源的レベルでの拒絶に基づく達成の不可能性を意味する。それだから、双方に生じる隔絶は決定的で致命的なものとなる。

 こう見てみると、カミングアウトも告白も、おぞましいもののように思えてくる。いや、実際、おぞましいものなのだと思う。突然、知り合いに関するセンシティブな情報を知らされ、かつ暗にそれを守秘するべきものとして背負わされないといけないというのは、やはりそれ自体として気の重くなるものであるし、まして応え得ない好意が自身に向けられれば、尚更だろう。また、カミングアウト/告白する側にとっても、分かり合えないものと対峙した人間が見せる態度、表情(たとえ表面上取り繕われたものだとしても、取り繕われたものだと分かる限りでそれはひどく残酷なものでありうる)を、これほど生々しく見せつけられる瞬間は他にないのではないか。カミングアウトも告白も、そう意味で暴力なのであると言われたら、僕はそれを否定することができない。

(つづく)

 p.s. アウティング事件と全然関係なくてすみません。ただ、人々(時に僕)が抱いてしまう不条理感に立ち向かうためには、こういう話をするしかないように思います。また、こういう話を抜きにしてしまうと、今後判決が下されても、ただの後味の悪い事件として終わってしまいかねないとも思ったのです。自分だって後味悪い文章を書いておいて(つづく)で逃げておいて何を言っているのだって感じですが。

*1:加えて、Zにはこういう悩みを打ち明けられたときにどう対処すべきか、ということを経験として知らなかったのではないかとも言っていたが、本当のところはどうだか分からない。だがいずれにせよ、Zの対応に問題があったということにはなるのだが。

*2:これは、平たく言えば「世界は公正にできており、誰かがよくない目に遭ったのならばそれはその人に非難されるべきところがあるからだ」という、われわれの生きる世界に対する信念である。

*3:性犯罪に関しては、多分に女性蔑視の問題も絡んでいるし、これ自体重要なテーマであるけれど、ここでは措いておく。

*4:人によってはこのやり場のない苦しみを怒りに転化させる者がいるかもしれない。この怒りが次にいう「根源的レベルでの拒絶」と組み合わせられて、突発的な嫌悪や憎悪へと至るのではないかと勝手に思う。