人生はくそ

心が貧しい

「一橋大学アウティング事件 裁判経過の報告と共に考える集い」に行って思ったこと(1)

 去る5月5日、明治大学駿河台キャンパスにて「一橋大学アウティング事件裁判経過の報告と共に考える集い」というものがあったので、行ってきた。

 御茶ノ水にある駿河台キャンパスには、リバティタワーという、校舎にしてはやたらと巨大な23階建てのビルがそびえているのだが、その1階にある1012教室で、この集会は開かれた。結構大きな教室なのだが、僕が到着した開会15分前には、すでに満員になっていた。300部用意されていたというレジュメも、僕の目の前でちょうど売り切れてしまった。泣く泣く手ぶらで入場した後も参加者はどんどんと押し寄せ、開会の時刻には、扉の外の廊下にまで溢れかえるほどにまでなった。この事件に対する人々の関心の高さを、改めて感じた。

 一橋アウティング事件とは、ゲイである一橋大学法科大学院生が、同級生から受けたアウティング、およびこれに対する大学の不適切な対応を苦に自殺した、という事件である。残念ながら、この事件含め、性的少数者に関するニュースというものはとにかくセンシティブなものとして扱われがちで、世間で大きく取り沙汰されることは少ない*1。だから、この事件の詳細はおろか、そもそも事件の存在さえ知らない人がいても無理のないことのように思われる。というわけで、そのような人のために、事件の経緯を簡単にまとめる。

 

 当時一橋大学法科大学院生であったAは男性同性愛者で、同じクラスの男子学生Zに好意を寄せていた。Aは2015年4月、LINEを通じてZに告白をする。この時点でZは、付き合うことはできないが、今後も友人としてやっていきたい、という旨の反応をしたのであるが、後日Zは、AやZ、その他同級生がメンバーとなっているLINEグループに、「お前がゲイであることを隠しておくのムリだ。ごめん(Aの実名)」と投稿。これを期にAは心身に不調を来すようになり、Zの姿を見ると吐き気や動機を催すほどにまで至った。Aは法科大学院の教授や大学のハラスメント相談室に相談したが、後述するように(被告の主張する限りでは)不適切、不十分な対応をされるに留まった。そして8月24日、AはZも参加する必修の模擬裁判の途中にAはパニック発作を起こし、保健センターにて処置を受けた後、授業に戻るとして保健センターを出た。その後Aは先述のLINEグループに「(Bの実名)が弁護士になるような法曹界なら、もう自分の理想はこの世界にない」「いままでよくしてくれてありがとう」という投稿ののち、キャンパス内の建物の6階から飛び降り自殺した。これを受けAの遺族は、2016年3月、Zと大学を相手取り、計300万円の損害賠償訴訟を東京地裁に起こし、現在も係争中である。

 

 今回の集会では、(1)この民事訴訟の経過について弁護士から報告がなされ、次いで(2)有志による追悼集会・裁判傍聴の報告、(3)明大教授の鈴木賢氏による基調講演と続き、休憩を挟んで、(4)有志の追悼の言葉、(5)家族によるビデオメッセージ、最後に、(6)パネルディスカッションという具合に進行していった。この投稿では、これらの内容すべてを網羅的にメモから書き起こすようなことはしない。分量が膨大になるのと、それ以前にすでに他の参加者によって適切な形でなされているからである。*2例えば次の通り。

togetter.com

だからここでは、本集会及び一橋アウティング事件に対する、個人的な感想をいくつか述べるにとどめる。何が語られたのかももちろん重要だが、一当事者として考えたことを(たとえ通り一遍の内容であろうと)何かしらの形で表現するのも、同じくらい重要だろうからである。なお、書きたいことが多すぎるのと、自分の筆不精もあって何日かに分けて投稿することにする。

アウティングの暴力性

 去年の夏ごろだろうか。このニュースを聞いてかなりの衝撃を受けたのを、今でも覚えている。ただでさえ性的少数者に関するニュースが取り沙汰されるのは珍しいというのに、ましてアウティングによる自殺だというのだから。

 僕だけでなく、ほとんどの性的少数者は、アウティングされるということがどれだけ恐ろしいことなのかを、薄々、もしくは直接肌で、知っているはずである。

 アウティングとは、性的少数者などに対して、「本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向性自認等の秘密を暴露する行動のこと」(Wikipedia)である。アウティングのパターンは多岐に渡り、行為の面で言えば、カミングアウトされた友人や同僚が他の知り合いにバラすといったものだけでなく、例えばある有名人が、同性愛スキャンダルだの何だのとゴシップ紙に書き立てられることも、アウティングに該当する。動機や目的も、相手の名誉の毀損、性的少数者に対する憎悪、面白半分と、色々考えられるが、その外的・内的形態がどうであれ、アウティングは当事者のプライバシー権を侵害するものである。プライバシー権というと抽象的で分かりづらいが、要するに自分に関する情報をコントロールする権利である。ここでいうプライバシー権の侵害とは、自分が秘しておきたい性自認性的指向だとかを、他者によって不当に暴露されてしまうなのことである。

 上で暗に示したように、アウティングの被害を受けた性的少数者は数多くいる。実は本集会で基調講演をなさった鈴木氏も、その被害者の一人なのである*3

 鈴木氏が北海道大学に在籍していた頃、彼が台湾人男性と開いた結婚式などについて某週刊誌に暴露されたのである。レジュメが手元にないので正確な見出しや内容はわからないのだが、まあ週刊誌らしい猥雑な語彙がふんだんに散りばめられていたように記憶している。鈴木氏はさも大したことでないかのような話しぶりを保ってはいたが、想像するに、当時、そして今も、言い知れぬ怒りや不安、悲しさがこみあげていたのではなかろうか。なんせ、パートナーとの祝福すべき、そして密やかな契約が、自らの知らぬところを通じて知られ、挙句の果てに面白可笑しく書き立てられたのだから。

 実は、僕もアウティングの被害を受けている。この前中学同期の友人から聞いたのだが、彼がある同期Xと喋っていて、僕の話になった時、Xがこう言ったのだそうだ。「あいつゲイなんだって。お前も気をつけろよ」。僕は中学生の頃に好きだった人に告白したことがあるのだが、どうやらこのことがいつの間にか同期中に知れ渡っていたようなのである。僕とほとんど喋ったことがなく、共通の友人もいないXが知っているのだから、噂は何人もの口を経て伝播しているはずで、恐らくかなりの人にバレているんだろう。僕は怖くなった。未だに誰がアウティングしたのかがわからない以上、誰も信じることができないのである。

 アウティングが責められるべき所以のひとつは、プライバシー権の侵害に必然的に付随する裏切り、つまり、この人だったら告白しても受け止めてくれるだろう、カミングアウトしても受け止めてくれるだろう、といったような信頼に対する裏切りにある。信頼していた友人、同僚に秘密を口外されることのショックは、誰もが知るところである。また、この社会において、異性愛以外の性的指向、肉体の性と異なる性自認を公にされることは、極めてリスクの高いことである。今でこそ、性的少数者の認知自体は以前より進んでいる面はあるが、彼らに向けられた偏見、好奇の目は未だ根深く残っているのが現状である。そのような世界で、自らの性的指向性自認を不用意に開示されてしまうのは、耐え難い恐怖と屈辱なのだ。つまり、アウティングによって被害者は、信頼のおける人物によってのみならず、無理解な社会からも傷つけられるのであり、したがって、この言葉は本集会でも何度も言われてきたことなのだが、「アウティングは暴力である」。しかも、今回の事件のように人を死に至らしめることも少なくない苛烈な暴力なのである。

(つづく)

(2016.05.30 つづきのリンクと脚注を追加。)

*1:例えば去年こんな記事が書かれた。なぜ日本の大手メディアは、性的マイノリティーの問題にこうも鈍感なのか(牧野 洋) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

*2:また、言い訳がましいのだが、特に(4)と(5)については、内容が内容なので事細やかにメモをするのがためらわれたというのもあって、ちゃんとしたメモが無い今、正確にその言葉を伝えるということに責任が取れないという部分もある。今となっては、こういう言葉こそ書き留められ伝えられるべきものだったと思い後悔している。

*3:ここにこのことを書くのもアウティングじゃないんかいって思われそうだが、鈴木氏は例えばここでゲイであると公言しているから、少なくとも上に言った定義のもとでのアウティングには該当しない。しかし、ここで問題になっている権利が、「自分に関する情報をコントロールする権利」である以上、「あなた自分で公言してるんだからいくら言いふらしたって構わないでしょ」という素朴な発想は慎まなければならないと考える。