人生はくそ

心が貧しい

立岩真也『私的所有論 第2版』第1章第1節


第1章は、『私的所有論』にて問われる問題を俯瞰し、同時に、その問題に対峙する際のある種の方法論を述べる章となっている。なお、原文では、第2章以降の構成が各節にてばらばらに語られているが、これについては最後にまとめて記す。

1. 私的所有という主題

[1]能力
 はじめに筆者は、「決定」と(近代的な意味での)「所有」は同じであると主張する。なぜならば、あるものを所有するということは、単にそれを所持していることだけでなく、それに対する処分権を有しているということをも意味するからである。そうすると、自己決定が大事とされるような文脈で語られる、「自分のことは自分で決める」という言葉は同語反復となる。そこで「私は何を所有=決定するのか」という問いが立つ。
 そんなことはわざわざ問うまでもないだろう、「私が私の働きの結果を私のものとする」に決まっているのだ、これに何の問題があるのだろうか、そう言われるかもしれない。だが本当にそれでいいのだろうか。筆者の問いは続く。
 そもそも、上に言った規範から我々は脱することはできるのか。人は故なく何かをなす能力を持たずに生まれる。例えば障害者。彼らはほかの人よりできることが少ない結果、この社会によって不当な不利益を被っているのだ、という意見があった。日本では1970年代頃に言われたことだったが、この行き着く先のない問いはそのまま今まで放置されてきてしまった。これについて考え直される。
 また、上に言ったような社会について、市場経済はもう前提とするしかないのだから、あとは諸々の福祉制度でどうにかすればよいのではないか、という考えもある。それでいいのか、と考えつつも、安直に反対することもできない。能力主義、業績原理がいけないとしても、どういけないのか、また代替案はあるか。社会学は、「属性原理から業績原理への移行を「近代化」の特徴として捉える」(p. 28)が、それではなぜ業績原理が選ばれたのか。身分や性別のような動かしがたい属性とは違って業績は自分の思いのままになるからだといっても、我々の能力=属性には限界があるから、必定業績は属性に依存する。そもそも能力の多寡が格差という問題を生み出している。

[2]所有=処分に対する抵抗
 私の身体、およびそれに関わることは私のものである、と言われる。しかし果たしてそうか。臓器売買、代理出産契約などは、実際に行われているが、抵抗がある(という人がいる)。すなわちこれは単なる私的所有、市場の原理で説明できるものではない。自由主義が言うように、取引の結果利益が生ずる(、だからその話の内部においてはすでに完結しているし問題はない)のは確かなのだが、そこに問題の焦点を置くのではなく、これらの取引に対する違和感を明らかにしていく。
 このように抵抗してきたのは、他ならぬ自己決定を主張する人たちである。例えばフェミニスト、障害者など。確かに、自己決定を求める立場と、臓器売買などを否定する立場の間には矛盾があるように見える。しかしそこには、この両方を同時に成り立たせる一貫した感覚があるはずである。それを探す。

[3]自己決定の外側、そして線引き問題
 また、決定できない人たちはどうなるのか。例えば、新生児、胎児、知的障害者、そもそも意識のない(なくなった)人。例外的な少数者の問題と言われるかもしれない。しかし、第一にかつて我々がみなそのような存在であったからには、決して例外だとは言えない。自己決定の及ばない範囲がある。子供に何かしらの流儀を教え込むとき、そして、いまだ生まれない存在のあり方を操作するとき。生まれたものに対して何か操作することが許されるなら、いまだ生まれないものに対しても同様に許されるのではないか、と言われるかもしれない。第二に、そもそも我々だって、決定できるものばかりに囲まれているわけではない。それが決定した方がよいものかどうかも確かではない。
 以上のように考え、筆者はこのように述べる。

ここまで記したいくつもの道筋から考えていくと、「私が作りだし私が制御するものが私のものであり、人であることの価値である」という近代社会の基本的な原則であり価値とされているものとは別の価値を現に人は有している、そうとしか考えられない。(p. 33)

しかし、その価値が、何もかもを認める、認め合うというものであれば、何もかもを無差別に扱うことにならなければならない。ここで必然的に「どこまでが尊重される範囲なのか」という程度問題が現れる。この問題に付随して、人を特権的に扱う理由があるのか、いつヒトは人になり、殺されてはならない存在になるのかという線引き問題が生じる。本書ではこれについても考察される。

 出生前診断や選択的中絶といった「優生」の問題についてはどうだろうか。優生学が批判されてきたのは、それが科学的に誤りだったこと、それが暴力であったこと、この二点においてである。しかし、科学的に正しく、誰も(肉体?的に)傷付かず、殺されない(?)のならば、人間の能力を向上させる優生学は許容されてしまうのではないか。いまだ存在しない他者の存在について我々は何を決めることができるのか。このことも検討される。

 自己所有、自己決定を認める範囲と認めない範囲がある。譲渡、交換を認め、さらに再配分が要求されるものがある。一方、あるひとのもとに置かれることは認められるが、その移動を肯定しがたい、そういうものがある。これは自己決定の原理からは生じない感覚であるが、とはいえ他者の権利を全面的に認めているわけでもない。そして、自己決定はよいものだとは思いながら、これが果たして人を人たらしめる第一原理なのだろうか、という感覚もある。以上の一見矛盾した感覚は何に由来するのか、また、その感覚(に対する問い)が現れるこの現代社会は、どのように成り立っているのだろうか。「私的所有」という古びた主題にも、まだこれだけの問いが残されているのだと、筆者は言う。