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人生はくそ

心が貧しい

試み

 PCのフォルダを漁っていたら、あるワードファイルを見つけた。更新日時は2015/12/06。「結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり...」という身も蓋もないフレーズで始まっていた。この時期はLGBTに関する様々なニュースが飛び交っていて、卒論やら院試やらで追いつめられている自分は余計に神経を擦り減らしていた。そういうわけでやけっぱちになって、ちょっと前の自分みたいにもうカミングアウトしてしまおうとなり、どっかに放流することを目的として一気に書き上げられ、結局封印されたものである。書き方はそれなりに利他的である。しかし、こういう文章はどうせ自分本位にならざるを得ないものだから、悪く言ってしまえば人をだしにしてるというか、世間をあてこすっていうというか、そんな感じの雰囲気であった。以下本文。プライバシーに関わる部分は適宜変えてある。

 

 

 結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり、この社会はそういう人たちにとって(昔と比べればだいぶましにはなったけれどそれでも)あまり居心地の良くないものであるから、誰かに救ってほしい、とまでは言わないにしても、誰かに認められたい、という趣旨のものになる。もちろん、ただそういうことを言い散らすだけではあまりに身勝手だと思うので、以下でぐだぐだと言い訳をする。

 そもそもこんなことを書こうと思ったのは、ひとつに、昨今の性的少数者にまつわる出来事があってのことである。渋谷区、世田谷区、宝塚市が、同性カップルを結婚相当の関係として認めるとしたこと、某市議会議員と某県職員の放言、そしてこれらに対するSNSやニュースといった世論(?)の反応……実を言うと、上に挙げた一連のことについては、最近まで割と等閑視してきた、というか、等閑視しようと意識的に距離を置いていた。前者に関しては、ああそう良かったね、後者に関しては、まあそういう人もいるよな、程度の感想に留めておいて、後は事の動静をじっと見守ることにしていた。というのも、今のまま行けばそうひどい方向に転ぶことはないだろうという楽観と、もうひとつ、このことについてはあまりもう深く考えたくないという気持ちもあったのである。ここでは女々しく過去のことについてこと細やかに述べることはしないが、自分の性的指向を自覚した中学生のころから今まで色々考えた結果、性的少数者にまつわる諸々のことについては一通り考え尽くした(つもりになっていた)し、何より、もう疲れたので、とりあえず当分の間この件については放っておこうということにした。

 状況が変わったのはここ最近のことである。僕の知り合いにゲイやレズがいるということが相次いで発覚し、彼ら、彼女らから詳しい事情を聴く機会が生まれた。多くの人が自分と同じでない性の人間を愛する中、本能的に同性を愛することしか出来ない運命に生まれてしまったことによる困難を共有する貴重な機会であった。中でも印象的だったのは――これがこの文章を書こうと思ったもうひとつの動機なのだが――あるゲイ男子の話である。

 彼には数年来のパートナーがいた。以前彼と二人で飲みに行った際に、普段ふたりでどういう風にしているのかについてそれなりに詳しく聞くことができた。恥ずかしながら僕にはまだそういう経験がなかったので、非常に新鮮だった。新鮮だった、とはいうが、実際にはごく普通の話である。一緒に映画を見に行ってそれについて語り合った、おいしいものを食べに行った、旅行に行った、ケンカして危うく別れそうになったが何とか持ち直した、等々。どれをとってもよくあるカップルの日常であり、ともするとわざわざ人に語るまでもない内容であった。しかし、これらのことを語る彼の顔は、非常に生き生きとしていて、満足そうであった。今まで誰にもこの幸せを語ることができず、世間との微妙な距離感を感じながら悶々と過ごしてきたであろう彼の笑みの裏には、抑圧の歴史があった。

 当人らで仲良くやっていればそれで満足だろうし、満足すべきだ(つまりおおっぴらにするな)、という考え方がある。性的少数者は往々にして公共衛生的に有害な存在として扱われている。具体的には、子孫を残さない、伝統的価値観を破壊する、そしてもっと単純に、気持ち悪いなどといった理由から、その存在を否定するとまではいかなくても(否定する人もいるが)、忌むべきものとされ、隠蔽されてきた。もちろん実際にはこんなに粗雑で露骨な言い方ばかりではなくて、もっと巧妙に、つまり、そのようなプライベートなことを公にすることはこの社会では恥ずかしいことだし、周りにも迷惑をかけかねないのだから慎むべきである、というような、品性だとかやましさに訴えかけるような物言いがなされることもある。確かに、親戚に知れれば自分どころか両親や兄弟さえどんな目に遭うか分からない時代が数十年前にはあったのだし、ともすると今もそうかもしれない。ただそれは、何かにつけて人を蔑み袋叩きにする世の中がおかしいというだけのことである。人間の運命を呪うのは、多くの場合神ではなく人間自身に他ならない。

 すべての人は、本人にとっての幸せを享受する権利があると思う。それと同時に、当人によってその幸せが幸せとして語られ、表明され、そして、承認される権利があると思う。なぜなら、これらの行動は、どういう訳かは知らないけれども、先ほどの彼に限らず少なからぬ人たちがせずにはいられないことであるし、また、これらの行動が誰かを不快にすることはあっても、傷つけることはないだろうからである。そこに愛があるからとか、そういう問題なのではない。もっとそれ以前の、素朴な、端的な権利として、許される必要があるのではないか。

 日陰者としてじめじめとした幸せを噛み締めなければならないのは不遇であると考える。そのような幸せは、(この世に完全なものがあるかどうかは分からないが少なくとも)不完全である。認められないことは、存外に苦しい。以上の様な請求を図々しいと考える人が多いのは知っている。図々しいと考えるからには、そのような権利は割合贅沢なものであるとされているわけであるが、そうとは思わない。自分の幸福を表明することさえ贅沢だとしたら、それでは贅沢でないものとして一体何が残されているのか。多分孤独しかない。世の中は孤独なものだと言ってもいいかもしれないが、人はずっと孤独なまま生きていけるほど強くない。また、孤独に耐えられる人がいたとしても、彼が孤独に耐えられない人を責める筋合いはない。だから、こういう風な幸せのあり方がありますよという語りを認めるべきだと考える。

 一応付け加えておくと、これは結婚(同性婚)の話ではない。もっとそれより手前のことを言っている。確かに、結婚となると、財産の権利だとか、公的扶助、立法の負担、そして因習的契約としての結婚自体の是非など、諸々のことが絡んでくるから単純には語れない。でも、当人らが思う幸せを幸せとして語る権利くらいなら、金も時間も労力も使わずに認めることが出来るのだから、認めてもいいのではないかというまでの話である。(よく、このような権利を人前でいちゃこらして見せつける権利と勘違いしている人がいるが、そうではない。これは単にデリカシーの問題だと思う。)

 以上ではかなりの論点を無視している。例えば、嫌なものは嫌だという点(「不快にすることはあっても、傷つけることはないだろう」と言ってしまったが、不快なものはやはり嫌なものであり、良くないものだろう)だとか、宗教の話だとか。また、数々の言葉の出処もあやふやである。いつだかに見かけた気がする言葉を思い返しながら書いているので、知らず知らずのうちに見えない敵と戦っているだけになってしまっていたかもしれない。これらについては後々丁寧に考え、練り直していかなければならないが、ひとまずこれらの手前で言えそうなことを言ってみた。自治体の動き、人々の声、友人たちの考えを承けて何より思ったのは、これは自分だけの問題でないし、遅かれ早かれちゃんと考えなければならない、ということであった。だから、とりあえず荒削りでも、月並みでもいいから自分の方向性を明らかにしようと思った次第である。以上、乱文失礼いたしました。

 

 

 以上のような具合であった。なんというか、気の利いたことを言ってなんとか認めてもらおうみたいな部分を感じなくもない。ただ当時なりの切実さが感じられるのは確かである。ちなみにこの直後に、いかにも自分らしい幼稚で卑屈な文章が続いていた。

 

 

 

 ……こういうことを考えるだけで精いっぱいだった。ただでさえ余裕のない時期に止めどなく様々なニュースが流れ込んで来て、無視もできずにとりあえず僕の内で煮え返る何かに応えようとあれこれ思いを巡らしてみたものの、また疲弊してしまった。程よく情報をシャットアウトすればいいものを、全部受け止めようとしてしまって、抱えきれなくなって、動けなくなる。それなのに、こんなことを書いてしまう。どんな言葉が返ってくるか分かったものではないにも関わらず。要は承認されたいのだ。認められたいのだ。よく考えました、偉いですねなどと言われたいのだ。そしてこんな風に拗ねたいのだ。同情されるからだ。もしくは侮辱する相手を軽蔑できるからだ。全てが月並みだ。疲れた。しばらくSNSからは離れよう。