人生

立岩真也『私的所有論 第2版』序

 初めに八つの問いが与えられる。後々引っ張りなおすかもしれないし、わざわざ自分の言葉で言い直す必要もないだろうと思ったので、ひとまずすべて引用する。

(1)一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。しかしなぜか。また、その人のものであれば、同意のもとでの譲渡(交換)は認められるはずだが、これもまた通常認められない。なぜか。
(2)例えば代理出産の契約について。それを全面的によしと思えない。少なくとも、契約に応じた生みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。つまり、ここでは自己決定をそのまま認めていない。
(3)ヒトはいつ生命を奪われてはならない人になるのかという問いがある。右で自己決定の論理で推し進めていくことをためらった私は、しかし、ここで女性の「自己決定」が認められるべきたど思う。
(4)私達は明らかに人を特権的な存在としている。しかしなぜか。人が人でないものが持たないものを持っているからだろうか。このように言うしかないようにも思われるが、私達は本当にそう考えているのか。また、それは(3)に記したようなこととどう関係するか、しないか。
(5)売れるもの=能力が少ないと受け取りが減る。あまりに当然のことだが、しかし、その者に何か非があるわけではない。こういうものを普通「差別」と言うのではないか。つまりそれはなくさなければならないもの、少なくともなくした方がよいものではないか。しかし、何を、どうやってなくすのか。それは可能か。
(6)他方で、私は能力主義を肯定している。第一に、私にとって価値のない商品を買わない。第二に、能力以外のもので評価が左右されてはならない場があると思う。しかし、能力主義は属性原理よりましなものなのか、そうだとすれば、なぜましなのか。また、第一のものと第二のものは同じか。
(7)生まれる前に障害のあるなし(の可能性)が診断できる出生前診断という技術があり、それは、現実には、障害がある(可能性がある)場合に人工妊娠中絶を行う選択的中絶とこみ(原文では傍点)になっている。それを悪いと断じられないにしても、抵抗がある。
(8)「優生学」というものがある。遺伝(子)の水準に働きかけて人をよくする術だという。ならばそれはよいものではないか。少なくとも批判することのほうが難しいように思われる。

 これらの散発的な問いを、次のように問い直す。「何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか」。そのうえで、私的所有というテーマについて語られてきたことを検討する。さらに今度は、問いの間にある矛盾、例えば(5)と(6)とに見られる、能力主義への相反した感情、あるいは自分の身体を自由に利用すること、自己決定への一貫しない姿勢、これらを同時に成り立たせる何かを探し出す。その何かというものは、我々の生の中に確かに存在するものであるが、これまで十分な言葉が与えられてこなかった。我々のなした「観念や実践の堆積」の裏にある隠れた前提を読み解くことで、その何か――ある感覚が浮かび上がってくる。

 筆者は加えて、単に私的所有や上にあげた「何か」を論じるのみならず、上に掲げた問いに対する「解」の提示も試みる。これまでになされてきたことというのは、問題の存在を指摘して終わっているか、生命の平等といった原理原則を唱えるだけで、現に我々が行ってしまっている線引きについて何も答えないまま終わっているか、論理の穴を残したまま「所有」と「決定」について何か言ったつもりになって終わっているか、このいずれかだという。それゆえこの本が書かれた、という由である。

 

どくしょかんそうぶん『してきしょゆうろん』

 『私的所有論』という本がある。これに巡り合ったのは多分、大学二年生の夏かそこらの頃である。知的にまだ多感だった僕は、見えない何者かにあたかも張り合うかのように、ニーチェだの倫理だの存在が云々だのといった、妙に小難しい本ばかり欲していた。そんな訳で、日頃から足繫く通っていたジュンク堂池袋店の、人文書を置いてある階でいつものようにうろちょろしていると、普段はそれほど見ることもなかった社会学コーナーの棚にふと目が行った。そしてこの本を見つけた。

 まずボリュームが異様だった。ここで見つけた版および現在出回っている版はいずれも第二版で文庫になっているのだが、やたら厚い。さっき測ったら4センチあった。ページも1000ページ近くある。そりゃあ(僕は読んだことはないけれど)京極夏彦の小説はこれよりもっと分厚いというし、そもそも本というのは厚さとかページ数とかで比較するものではないから、だからどうっていうこともないことではあったのだが、衒学的性向を持った僕にはやはりそれは(あまり良くないことだとは承知の上で)魅力的に思われた。しかしそれ以上に凄かった(と思った)のは帯にあったこの文言である。「この社会は、人の能力の差異に規定されて、人の受け取りと人の価値が決まる。それが『正しい』とされている社会である。本書はそのことについて考えようという本だ。もっと簡単に言えば、文句を言おうということだ。」恐ろしく挑戦的に思った。平等平等って言うけれど、何が平等なんだろうか、競争社会は果たして本当に平等なんだろうか、等々、社会のあれこれについて漠然とした違和感、疑問を抱きがちな人間にとっては非常に画期的な宣言であったことは言うまでもない。かくして一目ぼれした僕はためらうことなくこの『私的所有論』を手に取り、迷うことなくレジまで持っていってしまった。

 早速しっかり読んでみようと本を開いてみるが、当然のことながら出鼻を挫かれる羽目になった。まず難しい。いきなりジョン・ロックや経済の話が出てくる(経済とはいってもパレート最適や市場の失敗などのごく基本的な点にしか触れられていないのだが)。もちろんそんな素養を持ち合わせていなかった自分にとっては何ですかそれといった具合だったので、そもそも話が始まらない。様々な登場人物に翻弄される僕を尻目に議論は混迷を極める。それに加えて注が長い。今思えば全部まともに読むことも無かったのかもしれないが、僕はとにかくいちいち注に当たっていた。一つの注で長いものは3~4ページに渡るものもあった。気づいたら最初から良く分かっていない話の本筋が益々分からなくなってくる。そんなこんなで、最初のうちは100ページかそこらで音を上げてしまった。自分にはまだ早いんだなと思った。だが、いずれ絶対に読破してやるとも決心した。以上がやや感傷的な『私的所有論』との出会いの話である。

 

 『私的所有論』は、立命館大学先端総合学術研究科教授の立岩真也((による初の単著である。この本の初版が発行されたのは1997年のことで、当時の日本の生命倫理学の分野としては非常に画期的な業績だったらしいのだが、業界の人間でない僕は残念ながら、稲葉振一郎による解説などによってしかこのことを窺い知ることはできなかった。とはいえ、先程も言ったように第二版が発行されているし、ごく最近では英訳版も販売されているようだから、かの著書の価値が認められた上でこのような学問的な要請があるのは確かであるし、実際、本書の議論は従来なされてきたそれとは一線を画するように思う。「何が私のもとにあるものとされるのか、そして私はそれ(及びそれから生み出された生産物)を譲渡、交換することはどこまで許されるのか」という抽象的な問いを、「他者」という概念を通じて、代理母、人工妊娠中絶、能力主義優生学といった具体的な問題へと敷衍していく本書は、難解でありながら痛快でもある。また、巻末に付されている膨大な文献リストも、それ自体評価されるべき大事業の一つであるに違いない。

 なぜ今『私的所有論』について書こうと思ったのかというと、この本で考えられている問いとそれに対する答えが、この2016年でも、いやこの2016年だからこそ重要な意味を持っていると考えるからである。今年七月に起きた相模原障害者施設殺傷事件をきっかけに人々は、これまで何度も繰り返されては過ぎ去られてきた問題、優生思想を巡る問題に再び直面することになった。「障害者は生きている価値がない」という犯人の主張は、残念なことに決して一部の異常者が抱く極端な発想などではなく、例えばいわゆる「自然淘汰」といった言葉によって、暗に肯定され、支持されているのが現状である。何が人の価値とされるのか。持っているもの(の量と質)の多寡か。とすれば、より少なく持って生まれてしまった人は価値がないのか。『私的所有論』は、この問題について再考するための一冊でもある。

 と、ここまで来て『私的所有論』の具体的な内容に関してほとんど触れてこなかったが、それというのも僕がこの本の内容をすっかり忘れてしまったからである。とはいえ、内容を覚えていない本についてそのまま言いっ放しになってしまうのも宜しくないだろうから、ちまちまと読み進めてここに勝手に要約でもまとめてみようかと思うのである。これは誰のためというよりも、誠実たれという漠然とした規範意識、および自己満足に基づいたものだが、普段ものをろくに書かない僕にとってはちょうどいい文章の練習になるだろうとも思った。というわけで、三日坊主になるだろうことは承知の上で、つらつらと垂れ流すことになるでしょうが、どうぞ僕のことはそっとしておいて下さい。

 

雑多な思考

今週のお題「わたしの本棚」

今、本棚が荒れに荒れている。去年の引っ越し時点で既に一杯だったところへ、読みもしないくせに「はじめに」の印象でふわっと購入された本たちが次々とねじ込まれた結果、収まりきらない分がこれでもかとばかりに平積みされた、見事なまでに見苦しい本棚が誕生した。こういう本棚は、見た目が悪いのもそうだが、何より手が伸びづらいのがいけない。生来よりの物臭である僕でなくとも、平積み本をのけて目的の本を取り出す仕事はやはり億劫に思われるに違いない。だからだろうか、気付いたらめっきり本を読まなくなった。これは良くないと思ったから、近いうちにでも新しい本棚を買って蔵書整理をせねば、と考えている(という発言を数ヵ月前から方々でしておきながら、あれこれ言い訳をして先伸ばししまくっていたけれど、いい加減まずいのでちゃんと動きます)。

あと、これもついでに整理しておかなば、と思っているのがあって、それは自分の思考である。昔から何かについて考えるのが苦手で、物事を理路整然と語ろうとするのに物凄い労力を使ってしまうのだが、これはひとつに、これまで得た知識や考えついたこととかを日頃から整頓していないからなのだと思う。先程も言った通り僕は物臭だから、そういうことをしないでとりあえずなあなあに日々を過ごしてしまっているが、こんな感じにだらだら生きているとさあいざ議論しましょうって時だとか(今日みたいに)何かものを書こうって時だとかに色々苦労するわけである。まず何を考えればいいのか、雑然とした思考の山積みを見ただけではまるでぴんと来ないし、なんとかしてじゃあこれについて考えてみようとなったところで、山に手を伸ばそうとすると、その指先では余計なものがあれやこれや行く手を阻んでいて、気が散ってしまう。さっきの本棚の話みたいに、邪魔なものをどけて目的物を取ってくるのは面倒なことだし、ましてや怠惰なものにとっては尚更である。怠惰だからこそ、いざという時重い腰を少しでも軽くするために、日頃からマメに自身の周囲を小綺麗にしていかないといけないのだ。でないと後々泣き目を見るのは自分なのだから。

恐らく我が家の本棚に始まる身の回りのものは、こういった心の状態と互いに影響しあっている。ごちゃごちゃした思考が僕の本棚をカオスにし、カオスな本棚は僕の思考をごちゃごちゃにする。この負のスパイラルからはさっさと抜け出さないといけない。さもなくばこんな駄文製造機のまま一生を終える。それじゃ余りに情けない。というわけで近日中に本棚買います。また金が減る。ひいい。

試み

 PCのフォルダを漁っていたら、あるワードファイルを見つけた。更新日時は2015/12/06。「結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり...」という身も蓋もないフレーズで始まっていた。この時期はLGBTに関する様々なニュースが飛び交っていて、卒論やら院試やらで追いつめられている自分は余計に神経を擦り減らしていた。そういうわけでやけっぱちになって、ちょっと前の自分みたいにもうカミングアウトしてしまおうとなり、どっかに放流することを目的として一気に書き上げられ、結局封印されたものである。書き方はそれなりに利他的である。しかし、こういう文章はどうせ自分本位にならざるを得ないものだから、悪く言ってしまえば人をだしにしてるというか、世間をあてこすっていうというか、そんな感じの雰囲気であった。以下本文。プライバシーに関わる部分は適宜変えてある。

 

 

 結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり、この社会はそういう人たちにとって(昔と比べればだいぶましにはなったけれどそれでも)あまり居心地の良くないものであるから、誰かに救ってほしい、とまでは言わないにしても、誰かに認められたい、という趣旨のものになる。もちろん、ただそういうことを言い散らすだけではあまりに身勝手だと思うので、以下でぐだぐだと言い訳をする。

 そもそもこんなことを書こうと思ったのは、ひとつに、昨今の性的少数者にまつわる出来事があってのことである。渋谷区、世田谷区、宝塚市が、同性カップルを結婚相当の関係として認めるとしたこと、某市議会議員と某県職員の放言、そしてこれらに対するSNSやニュースといった世論(?)の反応……実を言うと、上に挙げた一連のことについては、最近まで割と等閑視してきた、というか、等閑視しようと意識的に距離を置いていた。前者に関しては、ああそう良かったね、後者に関しては、まあそういう人もいるよな、程度の感想に留めておいて、後は事の動静をじっと見守ることにしていた。というのも、今のまま行けばそうひどい方向に転ぶことはないだろうという楽観と、もうひとつ、このことについてはあまりもう深く考えたくないという気持ちもあったのである。ここでは女々しく過去のことについてこと細やかに述べることはしないが、自分の性的指向を自覚した中学生のころから今まで色々考えた結果、性的少数者にまつわる諸々のことについては一通り考え尽くした(つもりになっていた)し、何より、もう疲れたので、とりあえず当分の間この件については放っておこうということにした。

 状況が変わったのはここ最近のことである。僕の知り合いにゲイやレズがいるということが相次いで発覚し、彼ら、彼女らから詳しい事情を聴く機会が生まれた。多くの人が自分と同じでない性の人間を愛する中、本能的に同性を愛することしか出来ない運命に生まれてしまったことによる困難を共有する貴重な機会であった。中でも印象的だったのは――これがこの文章を書こうと思ったもうひとつの動機なのだが――あるゲイ男子の話である。

 彼には数年来のパートナーがいた。以前彼と二人で飲みに行った際に、普段ふたりでどういう風にしているのかについてそれなりに詳しく聞くことができた。恥ずかしながら僕にはまだそういう経験がなかったので、非常に新鮮だった。新鮮だった、とはいうが、実際にはごく普通の話である。一緒に映画を見に行ってそれについて語り合った、おいしいものを食べに行った、旅行に行った、ケンカして危うく別れそうになったが何とか持ち直した、等々。どれをとってもよくあるカップルの日常であり、ともするとわざわざ人に語るまでもない内容であった。しかし、これらのことを語る彼の顔は、非常に生き生きとしていて、満足そうであった。今まで誰にもこの幸せを語ることができず、世間との微妙な距離感を感じながら悶々と過ごしてきたであろう彼の笑みの裏には、抑圧の歴史があった。

 当人らで仲良くやっていればそれで満足だろうし、満足すべきだ(つまりおおっぴらにするな)、という考え方がある。性的少数者は往々にして公共衛生的に有害な存在として扱われている。具体的には、子孫を残さない、伝統的価値観を破壊する、そしてもっと単純に、気持ち悪いなどといった理由から、その存在を否定するとまではいかなくても(否定する人もいるが)、忌むべきものとされ、隠蔽されてきた。もちろん実際にはこんなに粗雑で露骨な言い方ばかりではなくて、もっと巧妙に、つまり、そのようなプライベートなことを公にすることはこの社会では恥ずかしいことだし、周りにも迷惑をかけかねないのだから慎むべきである、というような、品性だとかやましさに訴えかけるような物言いがなされることもある。確かに、親戚に知れれば自分どころか両親や兄弟さえどんな目に遭うか分からない時代が数十年前にはあったのだし、ともすると今もそうかもしれない。ただそれは、何かにつけて人を蔑み袋叩きにする世の中がおかしいというだけのことである。人間の運命を呪うのは、多くの場合神ではなく人間自身に他ならない。

 すべての人は、本人にとっての幸せを享受する権利があると思う。それと同時に、当人によってその幸せが幸せとして語られ、表明され、そして、承認される権利があると思う。なぜなら、これらの行動は、どういう訳かは知らないけれども、先ほどの彼に限らず少なからぬ人たちがせずにはいられないことであるし、また、これらの行動が誰かを不快にすることはあっても、傷つけることはないだろうからである。そこに愛があるからとか、そういう問題なのではない。もっとそれ以前の、素朴な、端的な権利として、許される必要があるのではないか。

 日陰者としてじめじめとした幸せを噛み締めなければならないのは不遇であると考える。そのような幸せは、(この世に完全なものがあるかどうかは分からないが少なくとも)不完全である。認められないことは、存外に苦しい。以上の様な請求を図々しいと考える人が多いのは知っている。図々しいと考えるからには、そのような権利は割合贅沢なものであるとされているわけであるが、そうとは思わない。自分の幸福を表明することさえ贅沢だとしたら、それでは贅沢でないものとして一体何が残されているのか。多分孤独しかない。世の中は孤独なものだと言ってもいいかもしれないが、人はずっと孤独なまま生きていけるほど強くない。また、孤独に耐えられる人がいたとしても、彼が孤独に耐えられない人を責める筋合いはない。だから、こういう風な幸せのあり方がありますよという語りを認めるべきだと考える。

 一応付け加えておくと、これは結婚(同性婚)の話ではない。もっとそれより手前のことを言っている。確かに、結婚となると、財産の権利だとか、公的扶助、立法の負担、そして因習的契約としての結婚自体の是非など、諸々のことが絡んでくるから単純には語れない。でも、当人らが思う幸せを幸せとして語る権利くらいなら、金も時間も労力も使わずに認めることが出来るのだから、認めてもいいのではないかというまでの話である。(よく、このような権利を人前でいちゃこらして見せつける権利と勘違いしている人がいるが、そうではない。これは単にデリカシーの問題だと思う。)

 以上ではかなりの論点を無視している。例えば、嫌なものは嫌だという点(「不快にすることはあっても、傷つけることはないだろう」と言ってしまったが、不快なものはやはり嫌なものであり、良くないものだろう)だとか、宗教の話だとか。また、数々の言葉の出処もあやふやである。いつだかに見かけた気がする言葉を思い返しながら書いているので、知らず知らずのうちに見えない敵と戦っているだけになってしまっていたかもしれない。これらについては後々丁寧に考え、練り直していかなければならないが、ひとまずこれらの手前で言えそうなことを言ってみた。自治体の動き、人々の声、友人たちの考えを承けて何より思ったのは、これは自分だけの問題でないし、遅かれ早かれちゃんと考えなければならない、ということであった。だから、とりあえず荒削りでも、月並みでもいいから自分の方向性を明らかにしようと思った次第である。以上、乱文失礼いたしました。

 

 

 以上のような具合であった。なんというか、気の利いたことを言ってなんとか認めてもらおうみたいな部分を感じなくもない。ただ当時なりの切実さが感じられるのは確かである。ちなみにこの直後に、いかにも自分らしい幼稚で卑屈な文章が続いていた。

 

 

 

 ……こういうことを考えるだけで精いっぱいだった。ただでさえ余裕のない時期に止めどなく様々なニュースが流れ込んで来て、無視もできずにとりあえず僕の内で煮え返る何かに応えようとあれこれ思いを巡らしてみたものの、また疲弊してしまった。程よく情報をシャットアウトすればいいものを、全部受け止めようとしてしまって、抱えきれなくなって、動けなくなる。それなのに、こんなことを書いてしまう。どんな言葉が返ってくるか分かったものではないにも関わらず。要は承認されたいのだ。認められたいのだ。よく考えました、偉いですねなどと言われたいのだ。そしてこんな風に拗ねたいのだ。同情されるからだ。もしくは侮辱する相手を軽蔑できるからだ。全てが月並みだ。疲れた。しばらくSNSからは離れよう。

希望について

 すべては偶然である。ただ理由もなくあの人は強く生まれ、この人は弱く生まれる。ただ理由もなくあの人は賢く生まれ、この人は愚かに生まれる。ただ理由もなくあの人は喜び、この人は苦しむ。ただ理由もなくあの人は生き、この人は死ぬ。人間は偶然を満たすための器である。我々が互いに小競り合いをしたところで、それはいくつかの偶然の戯れに過ぎない。ある偶然が他方にたまたま優越している結果、偶然が偶然に勝ち、偶然が偶然に負ける、ただそれだけのことなのである。そしてそれ以外ありえない。その限りで、偶然は必然に合一する。

 私のもとにあるものは私ではないし、私のものでもない。それは私に対して偶然与えられたものであるし、私にはそれを私のままにすることが出来ないからである。ゆえに私は私のもとにあるものに対する責任を負わないし、負えない。しかし、人間は偶然を罰することが出来ないから、仕方なく人を罰する。そしてここに主体が現れた。

 主体概念によって、あたかも私と私のもとにあるものが十全に制御可能であるかのように考えられるようになったが、そうではない。それらを制御するものは偶然によって作られたものだからである。ただ、このような世の中に生まれてそんなことばかり言っているわけにもいかないので、仕方なく諸々のことを私のものとして引き受ける。

 偶然に抗うことは空しい。抗った結果得たものもまた偶然の産物だからである。そもそも、抗っているつもりになっているその行為自体偶然に組み込まれている。だから、その行為の、さらにいえば世界の空しさにふさわしいだけの空しさを世界に対して抱く人がいる。そういう人たちが、頭を剃ったり、山を開いたりしてきた。

 これと違うのが、偶然だらけの世界に絶望する人、悲観主義者たちである。彼らは、悪を必然、善を偶然と考えているのであるが、ひとつに、善も悪も共に原因をひとつにすると考えないという点で、もうひとつ、必然と偶然が一致すると考えないという点で、空しさを知る人とは異なる。善を必然、悪を偶然と考える楽観主義者もこの点で同様であるし、さらに言えば、悲観主義者も楽観主義者もそう大差ない。ただし、悲観主義者は世界を否定したり仕方なく受容したりするが、楽観主義者は世界を否定することはしない。そのような非対称性がある。

 世界は受容しなければならない。世界を否定したところで、世界は否応なしに私のもとへ流れ込んでくる。その点、楽観主義は総体としての悲観主義に比べて一枚上手だと思う。しかし、悲観主義だって世界を受容することは出来なくはないし、この道から世界というものを知っていくのもよいと思う。これは悲観主義に残された唯一の希望であるからである。

さまざまな補足

 例の呟きから一夜明けて、諸々の反響があったりなかったりしたのだが、とりあえず、混乱した脳をぎこちなく運転させながら昨日言えなかったこと/加えて言いたいことを補足する。文章がめちゃくちゃであるがそこはご愛嬌。

・やはり欲望は正しい形で語られないと心がねじ曲がってしまう。気がする。だから、今回カミングアウトしたお陰で外向けの願望を異性愛者っぽくわざわざ取り繕うこともなくなるから、いたずらに鬱屈した言い方をしないで済むようになり、少しは心持ちも良くなるはずである。最近同期が恋愛ラッシュで動揺してるのもあって燃やすだの○すだの物騒な言葉ばかり発してしまっていてこれは良くないなと我ながら思っていたのだが、今回を契機としてもう少し穏やかな生を獲得できればなあと祈っている。とはいえ非リア村を作る話は本当です。入村待ってます。

・今後、僕が産み出す、性を纏った任意の表現物についてフィルターをかけて見られるのではないかという不安がある。いわゆる性的表現に留まらず、性別を持った(あるいは持たない)生物が描かれる場合もこれに該当する。具体的にどういう不安なのかというと、そういう表現物を「同性愛者松延が見た/描いた世界」として見られるのではないかという不安である。確かに、僕という装置を通過し表象された女性は必然的に性愛的な部分を捨象され、僕という人間にまなざされ描かれた男性は不可避的に性愛の対象となりうる可能性を付与される。さらに、性的な要素を漂白されたものを描く場合、今度は僕が性的に曖昧な位置にあることが意識され、表示されうる。それらは僕が同性愛者であり表現者である限り避けようのない事実なのである。僕はそれらを認める。認めるしかない。しかし、僕が同性愛者であることから帰結される以上のことは一般的である。つまり、僕そのものに由来するものではなく、「Xは同性愛者である」という述語の表す意味に含まれるものなのである。それは僕から離れたものであり、僕より一般的な概念である。今適当に思い付いたのだが、表現とは形式において一般的であってもよいが、意義においては特殊でなければならないと思う。だから、先ほどの述語から導かれる意義というのを、僕の表現の意義とされたくないのである。要するに、あらゆる述語を剥ぎ取った、端的な項としての松延を表現者として見なしてほしいのである。あらゆる肩書きを取り払った、純粋な表現者として見なしてほしいのである。途中で何をいってんのか自分でも訳がわからなくなったが、要するに僕の表現に「ああここは同性愛者の目線から描かれたからこうなったんだなあ……」とかそういう評価を与えられるのはちょっとあれだなあっていうだけです。偉そうなこと言ってすみません。

・親戚には死ぬまでこの事について話したくない。この時点で僕の親戚を知る人はめちゃくちゃ大きな弱味を握ったことになるわけだが、どうかこの事についてだけは家族に口外しないで欲しい。母親こそ子の人生は他人の人生、というポリシーを持ってはいるが、父親に関してはしっとりと酒を飲む度孫を見たいという旨の発言をしてくるので※、胸が痛むのである。本気で偽装結婚を考えているくらいなので、決して褒められた両親ではないけれども、どうか僕のこんな性状でいたずらに心を掻き乱されて死んでいくことだけは止して欲しいという気持ちがある。

※僕が甥に関するツイートをしてたのを知っているひとは「えっ孫いるじゃん」って思われたかもしれないが、実は今の父親の血を継いだ子供は僕だけである。別に大したことは起きてないので詳細は省くし(再婚なんて珍しくないだろうから)、正直僕のことの方が家族にとってはよっぽど不幸だろうと思う。

昨日のツイートについて

 昨日ぽろっと言ったように、僕はゲイである。

 酔ってやけっぱちになってつい呟いてしまったのだが、以前からそろそろ公にすべきだとは思っていたので、あまり後悔はしていない。で、なぜそろそろ公にすべきと思っていたのかというと、いい加減黙っているのに疲れてしまったからである。何かを言わないということはそれ自体(少なくとも僕にとっては)労力の要ることであり、歯痒いことである。周囲が勘違いをしている(つまり、僕を異性愛者とみなしている)場合はなおさらである。加えて、全く恋愛話をしないのも怪しまれるから、ゲイであることがバレない程度に(でももしかしたらバレてたかもしれない)ぼそぼそと小出しにしてきたのだが、外部に流した情報の整合性をとるのがいよいよ面倒になってきた。というか手に負えなくなってきた。うまいこと取り繕って話せば良いものを、と思われるかもしれないが、全く存在しない色恋沙汰をでっち上げるのは相当な苦労が要るし、何より馬鹿馬鹿しいから、畢竟本当の話を少し改変して話すことになるわけだが、これも段々話が噛み合わなくなってくる。嘘が下手だと言えばそれまでだが、いずれにせよこういうことをしているといよいよ周りに勘づかれ始める。そして、向こうから先にゲイなのと聞かれるのは何となく悔しいというか嫌なので、バレてしまう前に先回って公表してしまおう、となった。

 まさか今日がこの日になるとは予想していなかったのだが、いずれやってくる日ではあったので一応覚悟は出来ている。むしろこんな苦労話めいた厚かましい話を見せられる方はさぞ迷惑に感じているだろうことに申し訳なくなっている。ここに自分の身勝手さを謝罪します。また、嫌悪感を感じた方もすみません。気味の悪さを感じた方はどうぞお気になさらず距離を置いてください。こちらも察します。疎まれることには慣れていますから。