読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人生はくそ

心が貧しい

出会いについて

 おとといの夜のこと。あの日は上野の街を徘徊していた。安くて適度に人の入っている居酒屋を求めていたのだ。無論、安いのがいいことは言うまでもないが、程々の込み具合の飲食店というのは、そこに身を置くことで、自分自身の個が多数の中に埋もれることも、逆に際立てられることもなく、程よい適切な孤独さを楽しむことができる場所である。しかし、おひとりさまが行けそうなカウンターのある店は、どこも満員かさもなくばすっかりガラガラでほぼ店主と一対一か、といった具合であった。

 ともかくそういうわけなので、居酒屋に入ろうにも入れず、失意の中虚ろな目をしながらアメ横の喧騒にもみくちゃにされていた。この街には、未だ素面の人、ほろ酔いのひと、べろんべろんに酔ったひとなど色々いるが、それぞれが思い思いの話をし合って盛り上がっているのを、冷風除けのためのビニール越しに見ていると、どうにもうら寂しい心地がしてしまった。一度どこかに腰を据えて酒を飲んでしまえば、そういうひとたちなどすっかり蚊帳の外となるのだが、自分の居場所も定まらぬまま見せられる、多数の多数による華やいだ酒宴が与えるものは、疎外感でなくて何なのだろうか。「う~わ、また鬱になってるよこのひとwww」などと茶々を入れるメタな自己が、自分の健やかな精神にとっての最後の砦なのだが、じきにそいつも息をしなくなっていた。すっかり嫌気が差した。「もういいや、今日は柏の日高屋で飲んでやる」などと考えながら、僕は帰りの常磐線に乗った(ちなみに、色々不本意な部分はあるものの、日高屋サイゼリヤなどは、「安くて適度に人の入っている」という要件をばっちり満たしているという点では、とても居心地がいい)。

 いらんことで脳が疲れていたので、程なくして寝てしまった。気付いたら柏駅にいた。ふらふらと電車を降り、改札を出る。柏なんて、ちょっと外れに行けばド田舎なくせに、駅だけはやたらひとが多い。嫌だ嫌だと思いながらコンコースを突っ切る。すると、毎朝毎晩繰り返されるこの小さな苦行のさなか、耳慣れない音楽が東口方面から届いているのが分かった。柏市は、全国でも珍しいのか珍しくないのかは知らないが、ストリートミュージシャンの活動を自治体として公式で支援していて、毎日誰かしらが柏駅ペデストリアンデッキの隅で演奏しているのを聞くことができる。だから、改札近くで誰かが演奏していること自体はまったく珍しい光景ではなかった。そのはずだったのだが、なぜかその日の僕は、東口から聞こえるその演奏に並々ならぬ興味を覚えた。

 変ホ長調ハ短調の間をたゆたいながら反復される響きと音型。短二度を含む静謐なアルペジオが絶え間なく提示される音的世界は、さながらジョン・ケージの『ある風景の中で』(In a landscape)のようであった。

John Cage: In a landscape (1948) - YouTube

 そしてそれは遠目から見る限り、金属でできたどら焼き状のものを手で打撃することによって生み出されていた。その音色は、金属より発せられる音でありながら刺々しくなく、ハープのように柔和ではかなく、スティールドラムのように明瞭でふくよかだった。

 僕はこの演奏をずっと聞いていたいと思った。つまらぬことで疲弊しきってスカスカになった精神の隙間を隈なく充填する響きに、ずっと身を委ねていたいと思った。前述の通り柏駅はひとだらけで、演奏している目の前で立ち止まるのはやや憚られたから、また、真正のコミュ障たる自分には、奏者の真正面で聞く勇気もなかったから、演奏するその後ろからちょっと離れたところで、静かに聞いておくことにした。

 僕はこういう時に感じる感動を素直にかつ適切に伝えるのがとても苦手だ。正確にこの感情を伝えようと欲すれば、上に書いたようなすこぶるきな臭い文章しか考えつかないし、そもそもこの気持ちはこんな衒学的な美辞麗句でもって表現すべきものなのだろうか、とさえ思う。とはいえ、このまま内に秘めたままくすぶらせて置くわけにも行かなかった。なんとかして、何かしらの形でこの気持ちを伝えなければ。そう思った僕は、あれこれ考えた挙句、無言で相手の顔さえ見ずに投げ銭をして、そのまま逃げるように去った。後ろから「ありがとうございます」と声が聞こえたが、振り向かなかった。

 その後、日高屋に行って三種盛り合わせ(焼き鳥とキムチとメンマが乗ってるやつ)で生と日本酒を飲んだ。

 あれで良かったのだろうか、とぐずぐず考えていた。背後から突然現れて何も言わず目も合わせずお金を置いていくとか、普通に考えたら気持ち悪すぎるよな~~~ストーカーみたいだな~~~って思うし、そもそもの話、何かを良いと思ったのならばその良いものを生み出した人に面と向かって感謝申し上げるのが道義だし、というかそういう道義がどうとかいう以前にちゃんと感謝したかったし、あ~~~~下手こいた~~~~~と一人反省会を脳内で繰り広げていた。目の前の中年二人がふかすタバコの煙が、入り口から入る寒風に乗って僕の顔に吹きかかる。店を出る頃には、もうあのひとも引き上げているだろう。今更ああだこうだ考えても遅かろう。それっきしの出会いだったのだ。そう思うことにした。隣のおばさんは、お冷の氷をれんげで一気に掬ったかと思えば、先程到着した中華そばの中にどばっと入れ、何食わぬ顔で麺をすすり始めた。僕は日本酒の二合目と麻婆豆腐を注文した。追加でライスも注文した。伝票を見たら二千円近く行っていた。

 ふらふらと日高屋を出た。駅を降りたときと比べたら、人通りもずいぶん落ち着いていた。また夜は、数時間経つ間により一層冷え込んでいるように思われた。

 何か聞こえた。

 なんとまだあのひとが演奏していたのだった。

 さあここでまつのべどうする!?声をかけないと後々後悔するぞ!!!でもこの酩酊状態の中声をかけたらドン引きされること必至!!!!それでも行くかまつのべ!?!??どうする!?!?!?

 最終的に勇気を出して声をかけた。

(以下うろ覚え)
「あの、すみません、あの、すごく演奏良かったです」
「あ、ありがとうございます、さっき後ろで聞いていた方ですよね?」
「あっ、はい、そうですはい。なんかすみませんお金でしか伝えることができなくて、すみません…」
「いや、いや……」
「あの、その、僕、すごく応援してるんで、ほんと、あなたの音楽がすごく良いって思って、応援してます、頑張ってください」
「あ、ありがとうございます……」
「いや、ほんとに応援してるんで、頑張ってください、ほんと……」(以下続く)

 控えめに言ってめちゃくちゃ気味悪いひとになってしまった。思うところはちゃんと言えたが別の意味ですごく後悔した。とはいえ、しない後悔よりする後悔、という。これでよかったのだと思うことにした。「ここだとほとんど立ち止まって声をかけてくれる人がいないので有難いです」と言われて少し救われた。

 去り際に名刺を頂いた。見るに、フランス人の二人組と一緒にバンドを組んでいるようであった。そういえば、今は柏でストリートをやっているが、じきに台湾に旅立つといったことをおっしゃっていた。台湾でこのペアと落ち合って、演奏活動を続けるのだろうか。このまま世界を放浪し続けるのだろうか。などとぼんやり考えた。

 また、そのひとの演奏しているそれは、ハンドパンと呼ばれる楽器であった。割合最近に生まれた楽器で、欧州などでひそかな人気を集めているらしい。詳しくはWikipediaYouTubeなどをご覧いただきたい。なお、先程の方の演奏は、"Kashiwa Hang"と検索すればお聞きいただくことができる。例えば、こちら。

Kashiwa Hang, Play handpan @ Danshui, Taipei 台北淡水 2016/10/16 - YouTube

 最後になるが、以上の体験は、自分にとって極めて特異なものであった。ひとつは、これまでの音楽的経験の中で、単に情緒的であるのみならず非常に示唆に富んだ経験であったという点で。もうひとつ、人生に嫌気が差したこんな自分も、こういう感動に出会えるのだ、という驚きがあったという点で。得てして、世間を斜に構えて眺める人間にとって「出会い」という言葉はしばしば軽薄に扱われるが、ここに書いたような思いがけない出会いは、そのような偏狭な見方を改めてくれる、場合がある。

立岩真也『私的所有論 第2版』目次

私的所有論

私的所有論第2版 目次


(第2版序)

第1章 私的所有という主題
1. 私的所有という主題
2. 主題が置かれている環境

第2章 私的所有の無根拠と根拠
1. 所有という問題
2. 自己制御→自己所有の論理
3. 効果による正当化と正当化の不可能性
4. 正当化の不可能性

第3章 批判はどこまで行けているか
1. 自己決定の条件
2. 公平という視点
3. 交換と贈与について

第4章 他者
1. 他者という存在
2. 境界
3. 自己決定
4. 技術について
5. 生殖技術について

第5章 線引き問題という問題
1. 自己決定能力は他者であることの条件ではない
2. 線はないが線は引かれる
3. 人間/非人間という境界
4. はじまりという境界

第6章 個体への政治
1. 非関与・均一の関与
2. 主体化
3. 性能への介入
4. 戦略の複綜

第7章 代わりの道と行き止まり
1. 別の因果
2. 不可知による連帯
3. 抵抗としての自由
4. より「根底的」な批判
5. 行き止まりを通り抜ける

第8章 能力主義を否定する能力主義の肯定
1. 問い
2. I〈私が作ったものが私である〉の否定
3. II〈能力に応じた分配〉の否定+肯定
4. III〈能力しか評価してはならない〉の肯定
5. 結論と応用問題への回答と解けない問題

第9章 正しい優生学とつきあう
1. 出生前診断
2. 女性の「自己決定」という設定の錯誤
3. 「当事者」の不在
4. なぜ私達は行うのか
5. 何がなされうるだろうか
6. 積極的優生について
7. 引き受けないこと

ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1――
1. 単純な批判と基本的な位置
2. 人に纏わる境界
3. 人に対する人
4. 人に纏わるもの・世界
5. 分けられるものの分け方

いきさつ・それから――第2版補章・2――
1. なりゆき
2. その後

立岩真也『私的所有論 第2版』第1章第1節

私的所有論


第1章は、『私的所有論』にて問われる問題を俯瞰し、同時に、その問題に対峙する際のある種の方法論を述べる章となっている。なお、原文では、第2章以降の構成が各節にてばらばらに語られているが、これについては最後にまとめて記す。

1. 私的所有という主題

[1]能力
 はじめに筆者は、「決定」と(近代的な意味での)「所有」は同じであると主張する。なぜならば、あるものを所有するということは、単にそれを所持していることだけでなく、それに対する処分権を有しているということをも意味するからである。そうすると、自己決定が大事とされるような文脈で語られる、「自分のことは自分で決める」という言葉は同語反復となる。そこで「私は何を所有=決定するのか」という問いが立つ。
 そんなことはわざわざ問うまでもないだろう、「私が私の働きの結果を私のものとする」に決まっているのだ、これに何の問題があるのだろうか、そう言われるかもしれない。だが本当にそれでいいのだろうか。筆者の問いは続く。
 そもそも、上に言った規範から我々は脱することはできるのか。人は故なく何かをなす能力を持たずに生まれる。例えば障害者。彼らはほかの人よりできることが少ない結果、この社会によって不当な不利益を被っているのだ、という意見があった。日本では1970年代頃に言われたことだったが、この行き着く先のない問いはそのまま今まで放置されてきてしまった。これについて考え直される。
 また、上に言ったような社会について、市場経済はもう前提とするしかないのだから、あとは諸々の福祉制度でどうにかすればよいのではないか、という考えもある。それでいいのか、と考えつつも、安直に反対することもできない。能力主義、業績原理がいけないとしても、どういけないのか、また代替案はあるか。社会学は、「属性原理から業績原理への移行を「近代化」の特徴として捉える」(p. 28)が、それではなぜ業績原理が選ばれたのか。身分や性別のような動かしがたい属性とは違って業績は自分の思いのままになるからだといっても、我々の能力=属性には限界があるから、必定業績は属性に依存する。そもそも能力の多寡が格差という問題を生み出している。

[2]所有=処分に対する抵抗
 私の身体、およびそれに関わることは私のものである、と言われる。しかし果たしてそうか。臓器売買、代理出産契約などは、実際に行われているが、抵抗がある(という人がいる)。すなわちこれは単なる私的所有、市場の原理で説明できるものではない。自由主義が言うように、取引の結果利益が生ずる(、だからその話の内部においてはすでに完結しているし問題はない)のは確かなのだが、そこに問題の焦点を置くのではなく、これらの取引に対する違和感を明らかにしていく。
 このように抵抗してきたのは、他ならぬ自己決定を主張する人たちである。例えばフェミニスト、障害者など。確かに、自己決定を求める立場と、臓器売買などを否定する立場の間には矛盾があるように見える。しかしそこには、この両方を同時に成り立たせる一貫した感覚があるはずである。それを探す。

[3]自己決定の外側、そして線引き問題
 また、決定できない人たちはどうなるのか。例えば、新生児、胎児、知的障害者、そもそも意識のない(なくなった)人。例外的な少数者の問題と言われるかもしれない。しかし、第一にかつて我々がみなそのような存在であったからには、決して例外だとは言えない。自己決定の及ばない範囲がある。子供に何かしらの流儀を教え込むとき、そして、いまだ生まれない存在のあり方を操作するとき。生まれたものに対して何か操作することが許されるなら、いまだ生まれないものに対しても同様に許されるのではないか、と言われるかもしれない。第二に、そもそも我々だって、決定できるものばかりに囲まれているわけではない。それが決定した方がよいものかどうかも確かではない。
 以上のように考え、筆者はこのように述べる。

ここまで記したいくつもの道筋から考えていくと、「私が作りだし私が制御するものが私のものであり、人であることの価値である」という近代社会の基本的な原則であり価値とされているものとは別の価値を現に人は有している、そうとしか考えられない。(p. 33)

しかし、その価値が、何もかもを認める、認め合うというものであれば、何もかもを無差別に扱うことにならなければならない。ここで必然的に「どこまでが尊重される範囲なのか」という程度問題が現れる。この問題に付随して、人を特権的に扱う理由があるのか、いつヒトは人になり、殺されてはならない存在になるのかという線引き問題が生じる。本書ではこれについても考察される。

 出生前診断や選択的中絶といった「優生」の問題についてはどうだろうか。優生学が批判されてきたのは、それが科学的に誤りだったこと、それが暴力であったこと、この二点においてである。しかし、科学的に正しく、誰も(肉体?的に)傷付かず、殺されない(?)のならば、人間の能力を向上させる優生学は許容されてしまうのではないか。いまだ存在しない他者の存在について我々は何を決めることができるのか。このことも検討される。

 自己所有、自己決定を認める範囲と認めない範囲がある。譲渡、交換を認め、さらに再配分が要求されるものがある。一方、あるひとのもとに置かれることは認められるが、その移動を肯定しがたい、そういうものがある。これは自己決定の原理からは生じない感覚であるが、とはいえ他者の権利を全面的に認めているわけでもない。そして、自己決定はよいものだとは思いながら、これが果たして人を人たらしめる第一原理なのだろうか、という感覚もある。以上の一見矛盾した感覚は何に由来するのか、また、その感覚(に対する問い)が現れるこの現代社会は、どのように成り立っているのだろうか。「私的所有」という古びた主題にも、まだこれだけの問いが残されているのだと、筆者は言う。

立岩真也『私的所有論 第2版』序

私的所有論

 初めに八つの問いが与えられる。後々引っ張りなおすかもしれないし、わざわざ自分の言葉で言い直す必要もないだろうと思ったので、ひとまずすべて引用する。

(1)一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。しかしなぜか。また、その人のものであれば、同意のもとでの譲渡(交換)は認められるはずだが、これもまた通常認められない。なぜか。
(2)例えば代理出産の契約について。それを全面的によしと思えない。少なくとも、契約に応じた生みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。つまり、ここでは自己決定をそのまま認めていない。
(3)ヒトはいつ生命を奪われてはならない人になるのかという問いがある。右で自己決定の論理で推し進めていくことをためらった私は、しかし、ここで女性の「自己決定」が認められるべきたど思う。
(4)私達は明らかに人を特権的な存在としている。しかしなぜか。人が人でないものが持たないものを持っているからだろうか。このように言うしかないようにも思われるが、私達は本当にそう考えているのか。また、それは(3)に記したようなこととどう関係するか、しないか。
(5)売れるもの=能力が少ないと受け取りが減る。あまりに当然のことだが、しかし、その者に何か非があるわけではない。こういうものを普通「差別」と言うのではないか。つまりそれはなくさなければならないもの、少なくともなくした方がよいものではないか。しかし、何を、どうやってなくすのか。それは可能か。
(6)他方で、私は能力主義を肯定している。第一に、私にとって価値のない商品を買わない。第二に、能力以外のもので評価が左右されてはならない場があると思う。しかし、能力主義は属性原理よりましなものなのか、そうだとすれば、なぜましなのか。また、第一のものと第二のものは同じか。
(7)生まれる前に障害のあるなし(の可能性)が診断できる出生前診断という技術があり、それは、現実には、障害がある(可能性がある)場合に人工妊娠中絶を行う選択的中絶とこみ(原文では傍点)になっている。それを悪いと断じられないにしても、抵抗がある。
(8)「優生学」というものがある。遺伝(子)の水準に働きかけて人をよくする術だという。ならばそれはよいものではないか。少なくとも批判することのほうが難しいように思われる。

 これらの散発的な問いを、次のように問い直す。「何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか」。そのうえで、私的所有というテーマについて語られてきたことを検討する。さらに今度は、問いの間にある矛盾、例えば(5)と(6)とに見られる、能力主義への相反した感情、あるいは自分の身体を自由に利用すること、自己決定への一貫しない姿勢、これらを同時に成り立たせる何かを探し出す。その何かというものは、我々の生の中に確かに存在するものであるが、これまで十分な言葉が与えられてこなかった。我々のなした「観念や実践の堆積」の裏にある隠れた前提を読み解くことで、その何か――ある感覚が浮かび上がってくる。

 筆者は加えて、単に私的所有や上にあげた「何か」を論じるのみならず、上に掲げた問いに対する「解」の提示も試みる。これまでになされてきたことというのは、問題の存在を指摘して終わっているか、生命の平等といった原理原則を唱えるだけで、現に我々が行ってしまっている線引きについて何も答えないまま終わっているか、論理の穴を残したまま「所有」と「決定」について何か言ったつもりになって終わっているか、このいずれかだという。それゆえこの本が書かれた、という由である。

 

どくしょかんそうぶん『してきしょゆうろん』

ごちゃごちゃしたもの

 『私的所有論』という本がある。これに巡り合ったのは多分、大学二年生の夏かそこらの頃である。知的にまだ多感だった僕は、見えない何者かにあたかも張り合うかのように、ニーチェだの倫理だの存在が云々だのといった、妙に小難しい本ばかり欲していた。そんな訳で、日頃から足繫く通っていたジュンク堂池袋店の、人文書を置いてある階でいつものようにうろちょろしていると、普段はそれほど見ることもなかった社会学コーナーの棚にふと目が行った。そしてこの本を見つけた。

 まずボリュームが異様だった。ここで見つけた版および現在出回っている版はいずれも第二版で文庫になっているのだが、やたら厚い。さっき測ったら4センチあった。ページも1000ページ近くある。そりゃあ(僕は読んだことはないけれど)京極夏彦の小説はこれよりもっと分厚いというし、そもそも本というのは厚さとかページ数とかで比較するものではないから、だからどうっていうこともないことではあったのだが、衒学的性向を持った僕にはやはりそれは(あまり良くないことだとは承知の上で)魅力的に思われた。しかしそれ以上に凄かった(と思った)のは帯にあったこの文言である。「この社会は、人の能力の差異に規定されて、人の受け取りと人の価値が決まる。それが『正しい』とされている社会である。本書はそのことについて考えようという本だ。もっと簡単に言えば、文句を言おうということだ。」恐ろしく挑戦的に思った。平等平等って言うけれど、何が平等なんだろうか、競争社会は果たして本当に平等なんだろうか、等々、社会のあれこれについて漠然とした違和感、疑問を抱きがちな人間にとっては非常に画期的な宣言であったことは言うまでもない。かくして一目ぼれした僕はためらうことなくこの『私的所有論』を手に取り、迷うことなくレジまで持っていってしまった。

 早速しっかり読んでみようと本を開いてみるが、当然のことながら出鼻を挫かれる羽目になった。まず難しい。いきなりジョン・ロックや経済の話が出てくる(経済とはいってもパレート最適や市場の失敗などのごく基本的な点にしか触れられていないのだが)。もちろんそんな素養を持ち合わせていなかった自分にとっては何ですかそれといった具合だったので、そもそも話が始まらない。様々な登場人物に翻弄される僕を尻目に議論は混迷を極める。それに加えて注が長い。今思えば全部まともに読むことも無かったのかもしれないが、僕はとにかくいちいち注に当たっていた。一つの注で長いものは3~4ページに渡るものもあった。気づいたら最初から良く分かっていない話の本筋が益々分からなくなってくる。そんなこんなで、最初のうちは100ページかそこらで音を上げてしまった。自分にはまだ早いんだなと思った。だが、いずれ絶対に読破してやるとも決心した。以上がやや感傷的な『私的所有論』との出会いの話である。

 

 『私的所有論』は、立命館大学先端総合学術研究科教授の立岩真也((による初の単著である。この本の初版が発行されたのは1997年のことで、当時の日本の生命倫理学の分野としては非常に画期的な業績だったらしいのだが、業界の人間でない僕は残念ながら、稲葉振一郎による解説などによってしかこのことを窺い知ることはできなかった。とはいえ、先程も言ったように第二版が発行されているし、ごく最近では英訳版も販売されているようだから、かの著書の価値が認められた上でこのような学問的な要請があるのは確かであるし、実際、本書の議論は従来なされてきたそれとは一線を画するように思う。「何が私のもとにあるものとされるのか、そして私はそれ(及びそれから生み出された生産物)を譲渡、交換することはどこまで許されるのか」という抽象的な問いを、「他者」という概念を通じて、代理母、人工妊娠中絶、能力主義優生学といった具体的な問題へと敷衍していく本書は、難解でありながら痛快でもある。また、巻末に付されている膨大な文献リストも、それ自体評価されるべき大事業の一つであるに違いない。

 なぜ今『私的所有論』について書こうと思ったのかというと、この本で考えられている問いとそれに対する答えが、この2016年でも、いやこの2016年だからこそ重要な意味を持っていると考えるからである。今年七月に起きた相模原障害者施設殺傷事件をきっかけに人々は、これまで何度も繰り返されては過ぎ去られてきた問題、優生思想を巡る問題に再び直面することになった。「障害者は生きている価値がない」という犯人の主張は、残念なことに決して一部の異常者が抱く極端な発想などではなく、例えばいわゆる「自然淘汰」といった言葉によって、暗に肯定され、支持されているのが現状である。何が人の価値とされるのか。持っているもの(の量と質)の多寡か。とすれば、より少なく持って生まれてしまった人は価値がないのか。『私的所有論』は、この問題について再考するための一冊でもある。

 と、ここまで来て『私的所有論』の具体的な内容に関してほとんど触れてこなかったが、それというのも僕がこの本の内容をすっかり忘れてしまったからである。とはいえ、内容を覚えていない本についてそのまま言いっ放しになってしまうのも宜しくないだろうから、ちまちまと読み進めてここに勝手に要約でもまとめてみようかと思うのである。これは誰のためというよりも、誠実たれという漠然とした規範意識、および自己満足に基づいたものだが、普段ものをろくに書かない僕にとってはちょうどいい文章の練習になるだろうとも思った。というわけで、三日坊主になるだろうことは承知の上で、つらつらと垂れ流すことになるでしょうが、どうぞ僕のことはそっとしておいて下さい。

 

雑多な思考

ごちゃごちゃしたもの

今週のお題「わたしの本棚」

今、本棚が荒れに荒れている。去年の引っ越し時点で既に一杯だったところへ、読みもしないくせに「はじめに」の印象でふわっと購入された本たちが次々とねじ込まれた結果、収まりきらない分がこれでもかとばかりに平積みされた、見事なまでに見苦しい本棚が誕生した。こういう本棚は、見た目が悪いのもそうだが、何より手が伸びづらいのがいけない。生来よりの物臭である僕でなくとも、平積み本をのけて目的の本を取り出す仕事はやはり億劫に思われるに違いない。だからだろうか、気付いたらめっきり本を読まなくなった。これは良くないと思ったから、近いうちにでも新しい本棚を買って蔵書整理をせねば、と考えている(という発言を数ヵ月前から方々でしておきながら、あれこれ言い訳をして先伸ばししまくっていたけれど、いい加減まずいのでちゃんと動きます)。

あと、これもついでに整理しておかなば、と思っているのがあって、それは自分の思考である。昔から何かについて考えるのが苦手で、物事を理路整然と語ろうとするのに物凄い労力を使ってしまうのだが、これはひとつに、これまで得た知識や考えついたこととかを日頃から整頓していないからなのだと思う。先程も言った通り僕は物臭だから、そういうことをしないでとりあえずなあなあに日々を過ごしてしまっているが、こんな感じにだらだら生きているとさあいざ議論しましょうって時だとか(今日みたいに)何かものを書こうって時だとかに色々苦労するわけである。まず何を考えればいいのか、雑然とした思考の山積みを見ただけではまるでぴんと来ないし、なんとかしてじゃあこれについて考えてみようとなったところで、山に手を伸ばそうとすると、その指先では余計なものがあれやこれや行く手を阻んでいて、気が散ってしまう。さっきの本棚の話みたいに、邪魔なものをどけて目的物を取ってくるのは面倒なことだし、ましてや怠惰なものにとっては尚更である。怠惰だからこそ、いざという時重い腰を少しでも軽くするために、日頃からマメに自身の周囲を小綺麗にしていかないといけないのだ。でないと後々泣き目を見るのは自分なのだから。

恐らく我が家の本棚に始まる身の回りのものは、こういった心の状態と互いに影響しあっている。ごちゃごちゃした思考が僕の本棚をカオスにし、カオスな本棚は僕の思考をごちゃごちゃにする。この負のスパイラルからはさっさと抜け出さないといけない。さもなくばこんな駄文製造機のまま一生を終える。それじゃ余りに情けない。というわけで近日中に本棚買います。また金が減る。ひいい。

試み

ごちゃごちゃしたもの

 PCのフォルダを漁っていたら、あるワードファイルを見つけた。更新日時は2015/12/06。「結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり...」という身も蓋もないフレーズで始まっていた。この時期はLGBTに関する様々なニュースが飛び交っていて、卒論やら院試やらで追いつめられている自分は余計に神経を擦り減らしていた。そういうわけでやけっぱちになって、ちょっと前の自分みたいにもうカミングアウトしてしまおうとなり、どっかに放流することを目的として一気に書き上げられ、結局封印されたものである。書き方はそれなりに利他的である。しかし、こういう文章はどうせ自分本位にならざるを得ないものだから、悪く言ってしまえば人をだしにしてるというか、世間をあてこすっていうというか、そんな感じの雰囲気であった。以下本文。プライバシーに関わる部分は適宜変えてある。

 

 

 結論から話すと、この文章は、僕は同性愛者であり、この社会はそういう人たちにとって(昔と比べればだいぶましにはなったけれどそれでも)あまり居心地の良くないものであるから、誰かに救ってほしい、とまでは言わないにしても、誰かに認められたい、という趣旨のものになる。もちろん、ただそういうことを言い散らすだけではあまりに身勝手だと思うので、以下でぐだぐだと言い訳をする。

 そもそもこんなことを書こうと思ったのは、ひとつに、昨今の性的少数者にまつわる出来事があってのことである。渋谷区、世田谷区、宝塚市が、同性カップルを結婚相当の関係として認めるとしたこと、某市議会議員と某県職員の放言、そしてこれらに対するSNSやニュースといった世論(?)の反応……実を言うと、上に挙げた一連のことについては、最近まで割と等閑視してきた、というか、等閑視しようと意識的に距離を置いていた。前者に関しては、ああそう良かったね、後者に関しては、まあそういう人もいるよな、程度の感想に留めておいて、後は事の動静をじっと見守ることにしていた。というのも、今のまま行けばそうひどい方向に転ぶことはないだろうという楽観と、もうひとつ、このことについてはあまりもう深く考えたくないという気持ちもあったのである。ここでは女々しく過去のことについてこと細やかに述べることはしないが、自分の性的指向を自覚した中学生のころから今まで色々考えた結果、性的少数者にまつわる諸々のことについては一通り考え尽くした(つもりになっていた)し、何より、もう疲れたので、とりあえず当分の間この件については放っておこうということにした。

 状況が変わったのはここ最近のことである。僕の知り合いにゲイやレズがいるということが相次いで発覚し、彼ら、彼女らから詳しい事情を聴く機会が生まれた。多くの人が自分と同じでない性の人間を愛する中、本能的に同性を愛することしか出来ない運命に生まれてしまったことによる困難を共有する貴重な機会であった。中でも印象的だったのは――これがこの文章を書こうと思ったもうひとつの動機なのだが――あるゲイ男子の話である。

 彼には数年来のパートナーがいた。以前彼と二人で飲みに行った際に、普段ふたりでどういう風にしているのかについてそれなりに詳しく聞くことができた。恥ずかしながら僕にはまだそういう経験がなかったので、非常に新鮮だった。新鮮だった、とはいうが、実際にはごく普通の話である。一緒に映画を見に行ってそれについて語り合った、おいしいものを食べに行った、旅行に行った、ケンカして危うく別れそうになったが何とか持ち直した、等々。どれをとってもよくあるカップルの日常であり、ともするとわざわざ人に語るまでもない内容であった。しかし、これらのことを語る彼の顔は、非常に生き生きとしていて、満足そうであった。今まで誰にもこの幸せを語ることができず、世間との微妙な距離感を感じながら悶々と過ごしてきたであろう彼の笑みの裏には、抑圧の歴史があった。

 当人らで仲良くやっていればそれで満足だろうし、満足すべきだ(つまりおおっぴらにするな)、という考え方がある。性的少数者は往々にして公共衛生的に有害な存在として扱われている。具体的には、子孫を残さない、伝統的価値観を破壊する、そしてもっと単純に、気持ち悪いなどといった理由から、その存在を否定するとまではいかなくても(否定する人もいるが)、忌むべきものとされ、隠蔽されてきた。もちろん実際にはこんなに粗雑で露骨な言い方ばかりではなくて、もっと巧妙に、つまり、そのようなプライベートなことを公にすることはこの社会では恥ずかしいことだし、周りにも迷惑をかけかねないのだから慎むべきである、というような、品性だとかやましさに訴えかけるような物言いがなされることもある。確かに、親戚に知れれば自分どころか両親や兄弟さえどんな目に遭うか分からない時代が数十年前にはあったのだし、ともすると今もそうかもしれない。ただそれは、何かにつけて人を蔑み袋叩きにする世の中がおかしいというだけのことである。人間の運命を呪うのは、多くの場合神ではなく人間自身に他ならない。

 すべての人は、本人にとっての幸せを享受する権利があると思う。それと同時に、当人によってその幸せが幸せとして語られ、表明され、そして、承認される権利があると思う。なぜなら、これらの行動は、どういう訳かは知らないけれども、先ほどの彼に限らず少なからぬ人たちがせずにはいられないことであるし、また、これらの行動が誰かを不快にすることはあっても、傷つけることはないだろうからである。そこに愛があるからとか、そういう問題なのではない。もっとそれ以前の、素朴な、端的な権利として、許される必要があるのではないか。

 日陰者としてじめじめとした幸せを噛み締めなければならないのは不遇であると考える。そのような幸せは、(この世に完全なものがあるかどうかは分からないが少なくとも)不完全である。認められないことは、存外に苦しい。以上の様な請求を図々しいと考える人が多いのは知っている。図々しいと考えるからには、そのような権利は割合贅沢なものであるとされているわけであるが、そうとは思わない。自分の幸福を表明することさえ贅沢だとしたら、それでは贅沢でないものとして一体何が残されているのか。多分孤独しかない。世の中は孤独なものだと言ってもいいかもしれないが、人はずっと孤独なまま生きていけるほど強くない。また、孤独に耐えられる人がいたとしても、彼が孤独に耐えられない人を責める筋合いはない。だから、こういう風な幸せのあり方がありますよという語りを認めるべきだと考える。

 一応付け加えておくと、これは結婚(同性婚)の話ではない。もっとそれより手前のことを言っている。確かに、結婚となると、財産の権利だとか、公的扶助、立法の負担、そして因習的契約としての結婚自体の是非など、諸々のことが絡んでくるから単純には語れない。でも、当人らが思う幸せを幸せとして語る権利くらいなら、金も時間も労力も使わずに認めることが出来るのだから、認めてもいいのではないかというまでの話である。(よく、このような権利を人前でいちゃこらして見せつける権利と勘違いしている人がいるが、そうではない。これは単にデリカシーの問題だと思う。)

 以上ではかなりの論点を無視している。例えば、嫌なものは嫌だという点(「不快にすることはあっても、傷つけることはないだろう」と言ってしまったが、不快なものはやはり嫌なものであり、良くないものだろう)だとか、宗教の話だとか。また、数々の言葉の出処もあやふやである。いつだかに見かけた気がする言葉を思い返しながら書いているので、知らず知らずのうちに見えない敵と戦っているだけになってしまっていたかもしれない。これらについては後々丁寧に考え、練り直していかなければならないが、ひとまずこれらの手前で言えそうなことを言ってみた。自治体の動き、人々の声、友人たちの考えを承けて何より思ったのは、これは自分だけの問題でないし、遅かれ早かれちゃんと考えなければならない、ということであった。だから、とりあえず荒削りでも、月並みでもいいから自分の方向性を明らかにしようと思った次第である。以上、乱文失礼いたしました。

 

 

 以上のような具合であった。なんというか、気の利いたことを言ってなんとか認めてもらおうみたいな部分を感じなくもない。ただ当時なりの切実さが感じられるのは確かである。ちなみにこの直後に、いかにも自分らしい幼稚で卑屈な文章が続いていた。

 

 

 

 ……こういうことを考えるだけで精いっぱいだった。ただでさえ余裕のない時期に止めどなく様々なニュースが流れ込んで来て、無視もできずにとりあえず僕の内で煮え返る何かに応えようとあれこれ思いを巡らしてみたものの、また疲弊してしまった。程よく情報をシャットアウトすればいいものを、全部受け止めようとしてしまって、抱えきれなくなって、動けなくなる。それなのに、こんなことを書いてしまう。どんな言葉が返ってくるか分かったものではないにも関わらず。要は承認されたいのだ。認められたいのだ。よく考えました、偉いですねなどと言われたいのだ。そしてこんな風に拗ねたいのだ。同情されるからだ。もしくは侮辱する相手を軽蔑できるからだ。全てが月並みだ。疲れた。しばらくSNSからは離れよう。